デング熱で隔離
1998年7月Philippines マカテイ

 6度目のマニラ出張はは3週間の滞在だった。7月29日ニノイアキノ空港を出発のとき腹の調子が良くなかったが途中2泊した台北では幸いにも快復し、そのまま元気に関空に帰着した。

神戸の自宅へ戻ったのは7月31日の夜9時であった。疲れていたので早めに床についたのだが夜中に異様な寒気がして眼が覚め、押入から冬の蒲団を出してくるまった。

発熱しており、風邪だと思った。8月1日の朝になっても熱は下がるどころか上昇し続け何度も体に悪寒が走る。常備薬の解熱剤を服用したが全く効果がなく、昼過ぎついにこれはおかしいと、妻の運転で神戸中央市民病院へ向かった。「取り敢えず今日は帰ってもらって明日まで様子を見ましょう」。これが診察してくれた救急医師の最初の判断であった。


「先生今40℃です」。体温を測定した看護婦の言葉で医師の判断はあっさり変更された。「入院してもらいます」。感染症の隔離病棟であった。

夜になると窓から見える対岸のハーバーランドのイルミネーションがまばゆいばかり、だが体は鉛のように重くてだるく息苦しい。医師と看護婦しか入室できない隔離病棟の個室で一日中抗生物質等の点滴を受け、毎日採血して血液の培養検査をする。そのうえ腰の皮膚を一部切り取られ病理検査をしたが病名不明。

それでも症状は徐々に快方に向かい1週間後に37℃まで下がって10日後に退院する事になった。
だが病名は結局不明のまま。納得いかなかったので、感染症の専門医がいるという大阪市立医療センターの感染症センターに行って、診察データの入った紹介状を差出した。

 
坂上医師は即座に「これはデング熱だ」と診断された。念のため知合がいる阪大で血液検査をするという。日本ではデング熱は検査機関がなく血液はアメリカに送ってチェックされるので通常結果を得るまで1ヶ月かかるとのこと。市民病院の医師は私のデング熱はチェックしたんでしょうね。の質問に「最初にやりました。その後可能性のある40種類以上の感染症についてチェックしましたが病名不明です。」の答えであったので、ちょっと釈然としない。

 マニラとその近郊はデング熱が流行していて蚊にさされた覚えは確かにあり、現地の駐在員で親子3人でデング熱にかかった人もいたのだ。とにかく快復して良かった。

デング熱には数種類あって、免疫が出来てない2種類目、3種類目の感染がもっとも危ないとの忠告を坂上医師から受けた。そしてこの時から2年後に又坂上医師に世話になろうとは夢にも考えていなかった。


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