霧の中の欠航
インド デリー 
時期  1997年12月10〜12月29日
宿泊所 Vasant Continetal Hetel(Dehli)  
 
デリーのガンジー空港から関空へ帰国のフライトだった。タイ航空の機内に入りビジネスシートへ腰を落ち着けたのは定刻より大幅に遅れて2時間後の午前2時。

ホッとしたため微睡んでいたが機内の騒々しさで眼が覚めた。
廻りの乗客が荷物を持ってぞろぞろと機内から降りはじめている、「ムムッ何が起こったのだ」。
まさかバンコックにはまだ着いていない。
スチュワーデスに事情を尋ねる。やっと分かったのは「濃霧のため欠航」とのことだ。出国審査は済んでいるし、始めての事でどういう事になるのかまったく分からない。

とにかく皆についてイミグレーションを後戻りし空港ロビーに行く。
係員の指示は待機のためのホテル行きバスが来るまでこのロビーで待つとのこと。

その空港ロビーは全便欠航のため人又人の海。次から次へバスがロビーから見える発着場へくるが私たちの方へはなかなか迎えにこない。
周りの乗客が同じ便に乗っていた人々かどうか分からなくなって不安が増してくる。
近くにいた日本人らしい年輩の男に同じ便の客かと尋ねたらそうだとの返事。しかし彼はインド在住の韓国人であった。とにかくこの男を目印について行こうと思った。

ようやく迎えの係員が来て我々のバスに案内する。韓国人のあとについて乗り込み20分程でタイ航空の用意したホテルに到着した。ホテルロビーで、乗客名の確認と部屋割りがあり、ルームキーを受け取るまで小一時間ほどかかった。

このホテル(ロイヤルパークホテル)は例の韓国人によると5星。夜食、市内通話、ホテル代は無料だったが日本へかけた国際電話は個人持ちだった(高ーい、5000円/6分)。シャワーを浴びた後、まんじりともせず出発のコールを待つが、朝10時になってもベルは鳴らない。こちらからTELしたら、「今TELするところでした」。
あわてて階下へ降りていきすでにほぼ満席のバスに乗りこんだ、がバスはなかなか発車しない。一人足らないのだという。その輩が電話代を払っていないとの事で探すこと(待つこと)およそ1時間半、結局諦めてバスは空港へ。

空港はまたしても芋の子を洗う状態。搭乗券の再発行でチェックインカウンターに並んでいると、殺気だった若い西洋人同士が先を争い私の横で大声で喧嘩を始めた。顔は前に出て口角泡をとばす状態だが決して手は出さない。そんな中で搭乗券を確保した後、再度出国審査場で並んで待つこと2時間。昨日の出国スタンプはボールペンで横棒が入ってる。そして軍人のボデーチェックを受け その30分後にやっと機内のシートへ。すると前の席に座っている白人の中年カップルの前にそこは私の席だと搭乗券を振りかざし別の中年白人カップルがクレームをつけた。再び大声で言い争いが始まりスチュワーデスが飛んできた。何とか別の席を確保できた白人は「すまなかった。邪魔をしたな。」と喧嘩相手に言った。相手は「何も気にしてないよ」と今までの血相が嘘のように治まった顔で笑った。ほぼ15時間の緊張だった。本当に疲れた。

だがこれで”とらぶる”は終わりではなかった。バンコクでトランジットして、その翌日やっと到着した関空のターンテーブルの前でいくら待っても私のバッグが出てこない。すると、するすると寄ってきた係員が「OOO様ですね、荷物がないんですか? 紛失保険には入っていますか?」 。デリーからの乗り継ぎの日本人は私一人であり、トラブルでフライトが変更の場合荷物が着かないことがよくあるので注意していたそうだ。

 トランジットしたタイのドンムアン空港で私が荷物が間違いないようにと念を押した時、タイスマイルのグランドスチュワーデスは「OK、ノープロブレム、マイペンライ」と言って私を安心させてくれのだが・・・・・・。只一人?チェンマイ経由の長旅で黒ずんだ茶色のバッグが家に戻ってきたのは2日後の大晦日の事だった。

追記; 冬のデリー空港は今でも濃霧による遅延や欠航は度々ある。
     (2003年12月記)
インドへ戻る