語り継ぐ戦争体験
本HP管理人の父   
まえがき
戦 争を知らない若い人達が多数を占めるやうになった。現在平和の世の中になって私達戦争体験をした人々は、戦争が如何に非人間的で残虐性を秘めたものである ことを身を持って知っている。私は平和が如何にありがたいもので大切なもの、楽しい生活ができて人間としての幸せが本当に分かる事を今からの若い人々に訴 えたい。そして之を貴重な贈り物として後世に伝えて貰いたいものである。以下は終戦から引き揚げまでの私の手記である。
本文
昭 和二十年七月十一日朝、長男が出生した。私は長女五歳、次女三歳に加えて三人の子持ちになった。私達一家五人の住居は、満州国奉天市北陵区昭成街の満鉄社 宅であった。
そこは多数の日本人が住んでおり八世帯が一棟の二階建て社宅が五十棟を数える住宅街で当時は平和な楽天地であった。

当時私は満州国官吏(軍 人)であったが、終戦とともにその地位はなくなり、祖国へ引き揚げるまでの一年間は全く希望の持てないその日暮らしの一日一日となった。
食 べるために、生きていくために、着物や家具を売ったり日雇いに行ったりした。職場にいた元の同僚と相談し、共同の食料品を扱う店を作り仕入れ、販売、集 金、店舗の修理等真っ黒になって働いた。この間の苦労は並大抵ではない。
この困苦に堪える仕事をした事は、人間いざとなったら、生きるためにどんなことで も出来ると言う尊い体験となった。之は戦争が自分自身に与えた精神修養でもあった。

終 戦後の八月末頃から、ソ連の憲兵や中国の官憲が家宅捜索と言って調べに来ることが度々あった。この事を「日本人狩り」と言って、日本人は恐怖のどん底に落 とし込まれた。私達元官吏は身の安全を如何にすべきか日夜苦心した。知人、友人を遠くに訪れて身を隠すなど身が痩せる思いで過ごしていた。

ある九月初旬の出来事である。その日は朝から知人を訪ねる予定であった。何となく気が落ち着かないと思っていると、「日本人狩り」が始まっているとの噂が近所から流れてきた。
外に出ていた妻があわてて家に戻ってきて『外は危ない!』と言った。
もし外に出るような事があればすぐ捕らえられる事は目に見えている。
逃げるに逃げられずどうしようもない私は隠れる場所を見つけるのに苦悩した。

咄嗟の考え で裏の石炭貯蔵庫に身を隠そうとした。家屋は八畳と四畳半の二間でその他は玄関、炊事場、浴場、便所のみである。浴室から炊事場へ通じる一人がやっと通れ るドアがありそこから石炭置き場え逃げこんだ。石炭置き場は半坪位で身を縮めて入るのがやっとであった。

妻はその扉をしめ私を無理矢理押し込んだ。やがて 玄関から土足の足音が聞こえて二.三人のソ連兵らしい者が満人の通訳と共に話をしながら家屋内の捜索を始めた。

彼らは日本人を見つけるのみでなく、目星い貴重品をを略奪するのを常としていた。押入、戸棚、箪笥、便所を探し回ると十分間足らずで出ていった。この間の僅かの時間は、自分にとって一時間以上に も感じられらた。全く生きた気持ちはしなかった。

後から聞いた処によれば付近一帯から約十人余りの日本人が連行されて行ったのである。自分は本当に運の良 かった事に感謝した。彼らが日本人を捕らえた後どこへ連れていったか知る由もなく、日本人が帰って来たことは一度も知らない。その後「日本人狩り」は行わ れなかった。地域的に、日本人が多数居住していた事、日本人同士の連絡が密であった事にお互いに感謝し合ったものである。

話は前後するが、私は満州国の軍人で鉄路警護軍司令部の軍需処に勤務する上慰(日本軍の大尉相当)であってこれがため関東軍よりの召集を免除されていた。しかし一般の日本人は官庁に勤めているを問はず殆ど現地召集されていった。私の知人は四十歳以上で召集された。
終戦後は戦時中召集されずに軍、警察、検察に勤務していた者は名簿より指名手配され、何回も家宅捜査され大半の者はソ連軍に連行されていった。シベリアに抑留された日本人の数約四十六万人と言われた。 

昭和二十年の十月に入るともう満州は冬である。厳冬になる十一月には燃料がなくては生活出来ない。あちらこちらからの燃料集めも一苦労であった。又食料も益々欠乏してくる。多くの日本人は食物の入手に懸命である。その頃北満から続々と奉天市に毎日の如く避難民が流れ込んでくる。二十数万と言われた日本人開拓民が大半である。悲惨と言うより凄惨の状態であった。こうした昭和二十年の冬の窮乏に堪え忍び昭和二十一年の春が訪れると在満日本人はやっと生き延びてきたとの喜びがわいてきた。日本内地への引き揚げが日一日と近づいて来たからである。

昭和二十一年六月二十五日いよいよ引き揚げ命令がきて奉天駅より無蓋貨物列車に乗って葫廬島港に到着。十日間後、舞鶴港に上陸十二年ぶりに懐かしい日本内地に足を入れた。  
 あとがき
私は昭和六年十二月に朝鮮竜山歩兵第七十八連隊に入営し昭和八年十月満期除隊になった。その間満州事変に参加し鮮満国境で匪賊との交戦数回に及んだ。昭和九年二月満州国に渡り、満州鉄道警護総隊の幹部となり西南地区傭正工作の討伐隊長として昭和十八年九月より三ヶ月間、敵匪と交戦すること二回、大きな戦果を挙げた。しかし今はまだ、戦争という殺人行為、人間と人間が殺し合ふ無謀な戦争行動について語る心境にはなれない。平和な社会に感謝を持って生きていくことが、どんなに有り難い幸せかを心に刻み、潜在意識が過去を忘れさせようと努めて居るからだろう。
1985年 74歳   

 
父の戦争体験によせて
本HP管理人   
兄弟の中で只私一人だけ終戦後に生まれ、満州からの引き揚げ体験を家族と共有出来なかったという悔しい思いが子供の頃からある。

その記憶によると今回初めて見た父の手記には極めて重要な事実が欠落しているのである。

父はソ連兵(もしくは中国の官憲)に一度逮捕されているのである。
亡き母の回想によれば彼らに連行されてから一ヶ月後、もう諦めていたら『ひょっこり帰ってきた』のである。

その時の父の言い分は『満人に手を挙げたことも、悪いことも何もしとらんから当たり前たい』

私はこの父の言葉に未だに納得がいかない。軍人であるだけで「シベリア送り」されても仕方がない過酷な状況だったに違いない。

その一ヶ月間の出来事も釈放の理由も謎のまま父は他界した。

同様に戦争体験も一度も披露した事がない。父の矜持からすれば家族にも話すことができない程、戦争は癒えることのない深い傷を心に刻んでいたのであろう。自らの戦争参加や戦闘の修羅場を最後まで誰にも話す事なく、あの世に行った父。いつか彼岸でしみじみその事を聞きたいと想っている。
1997年 1月   

 満州時代の父母の写真 2  2013年追記2    
母23歳 父28歳 
昭和13年11月 於満州新京(長春) 
母24歳 父29歳
ヒトミ寫真館 満州吉林   
 平成25年11月10日の母の50
回忌でもっとも古い父母の写真を
見ることが出来た。
裏書きによると何と新京にいた。
前から探していた父母の写真が
うかつながら自分の古いアルバム
の中にあった。
写真の右下に「ヒトミ寫真館満州吉林
」とある。
裏書きに「清二十九才、アサヨ二十四
才」とある。他に記載もあるが「○月二
十八日○○○○....」と
残念ながら全部は読みとれない。 
満州時代の父母の写真 1   (2010年姉フサ子から入手) 
長女のお宮参り 左から父(清)、母(アサヨ) 父と長女(フサ子生後1ヶ月)
満州の朝陽鎮 
奉天(現沈陽)時代の話は少し聞いたことがあったが朝陽鎮の話は記憶にない。
早速地図で調べたら奉天から北東の吉林省吉林に行く途中海龍〜盤石間にある。吉林に近いところで奉天から約300kmのところだ。
次女サチ子の出生の地として戸籍にあるのが満州国盤石県盤石街大正区だからまず間違いなかろう。
転勤の場合は「満鉄の貨車1台を借りて移動した」ということは母から聞いたことがある。
推測の域を出ないが、日本人が作ったこの小さな祠見たいな神社しか神社は近くになかったのだろう。

だがここで疑問が湧いた。
福岡の前原町(現糸島市前原)で出生届がされている長女フサ子が生まれてまもなく何故満州にいるのだろう。
そこで早速フサ子に電話をして聞いてみるといきさつはこうであった。
母アサヨが満州より実家の福岡県小郡市西福童に帰ってきてフサ子を出産した。
その後父清が妻子を迎えのため満州より帰国しその当時清の親健蔵が住んでいた前原町の役場に出生届けを出した。そして親子3人で再び任地の満州国吉林省盤石県に帰って行ったのだった。

この盤石県は地図の色合いから見ると結構山の中だ。
沈陽からずっと北の山間の街、どのくらい其処にいたか知らないが冬は随分寒かったろうなと思う。

  
                                                                       
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